「パントン チェア」誕生のストーリー

マリアンネ・パントンへのインタビュー

マリアンネ・パントンの夫、それはプラスチック製一体成型キャンチレバーの椅子「パントン チェア」によって家具デザインの歴史を塗り替えたヴァーナー・パントンです。マリアンネ・パントンは、ヴァーナー・パントンとともに暮らした日々を振り返り、ヴィトラのインタビューに応えました。

マリアンネ・パントンは、まっすぐに心から楽しそうに笑います。活き活きとしたその姿は、自信と親しみに満ちています。ヴァイル・アム・ラインの「ヴィトラハウス」でラウンジチェアにゆったりと腰かける彼女は、夫ヴァーナー・パントンのマネージャーを務め、公私に渡る良き理解者として36年の年月をともに過ごしました。1998年にこの世を去ったヴァーナー・パントン。彼の作品は、「ヴィトラ デザイン ミュージアム」がその大部分を所蔵し、現在は所蔵と保管のための施設である「ヴィトラ シャウデポ」に収められています。鮮やかな色彩と曲線が印象的な「フラワーポット ランプ」から 「コーン チェア」 の鋭的なシェイプ、未来的 なインテリアで知られるシュピーゲルのレストランまで、ヴァーナー・パントンは唯一無二の存在として、デザイン史にその名を刻んでいます。その中でも自身の名前を冠した「パントン チェア」は、ミッドセンチュリーを代表するデザインアイコンとして最も有名です。

マリアンネ・パントンさんにお尋ねします。あなた自身は昔からデザインに興味をもっていましたか?どんな子供時代を送られたのでしょう?

そんなことはありません。デザインの業界とは無縁の田舎者でした。スウェーデンでは田舎者のことを「じゃがいもの列のびりっけつ」なんて揶揄したりします。まさに、そのような田舎で育ちました。父は大きな農場を経営していて、兄と私はたくさんの家畜に囲まれて幼少期を送りました。まだまだ保守的だった当時のスウェーデンで、普通の田舎の学校から女子学校に進級後、転校を繰り返してビジネスカレッジが最終学歴です。そこで出会った最初の夫と学生結婚し、二人の子供に恵まれましたが、後に離婚しました。私が ヴァーナー・パントンに出会ったのは1962年のことでした。

テネリフェ島で怪我の療養中に出会ったと聞きました。

はい。スクーターで転んでしまって。松葉杖がないと歩けない期間がしばらくありました。私は、テネリフェ島の友人の別荘で療養していました。友人は、オートクチュールのファッションデザイナーであったフィンランドの伯爵夫人でした。中庭のあるラテン風の別荘は素晴らしく、常にファッションモデルが別荘の中をうろうろ歩いていました。

ヴァーナー・パントンはテネリフェ島に何をしに?

バカンスです。彼は、人生最初のバカンスで、それまでは休暇すらとったことがないと言い張っていましたが、それは実際本当でした。彼は、テネリフェ島にいてなお、画用紙と鉛筆を肌身離さず持ち歩き、仕事をしていました。当時、テキスタイルやファブリックに興味を持っていたヴァーナー・パントンは、ファッションデザイナーの別荘に案内されてやってきました。また、すでに建築家として働いていた彼は、その別荘の建築にも惹かれていたようです。中庭のハンモックに横たわっていた私に、中庭を見ても良いか、写真を撮ってもよいかと尋ねてきた青い服の男性が、ヴァーナー・パントンでした。ギプス姿の私はその場を立ち去ることもできず。それが私たちの出会いでした。

その時点ですでにヴァーナー・パントンは建築家として有名になりつつありました。彼が誰だかわかりましたか?

いいえ。まったく。初めてデンマークの彼の家を訪ねた時、私はとてもがっかりしたのを覚えています。デザイナーで建築家といえば、きっと素敵な家と家具に囲まれて暮らしていると期待していましたから。コペンハーゲンのエースレンド海岸沿いの彼の家は、大きな窓から美しい海を見渡すことができ、とても素敵ではありましたが、彼はまったく家具を持っていませんでした。彼が持っていたのはコーンチェアだけ。部屋には描きかけの絵や図面を挟んだボードが4、5枚、そして彼が椅子や台座の代わりに使っていた木製のビールケースがあるだけでした。
© Verner Panton Design AG

パントンチェアの構想は1960年から始まり、量産化まで7年の月日を費やしました。ヴァーナー・パントンにとって、パントンチェアはどうしてそこまで重要だったのでしょう?

彼の頭はいつもアイデアに溢れていて、パントンチェアもその一つでしたが、彼にとっては諦めることのできない一脚だったのです。私と彼は、この椅子を携えて、ヨーロッパ中をドライブして回りました。ミラノ、そしてカンヌへ。この椅子を製品化してくれる家具メーカーを探して、旅を続けました。

パントンチェアを製品化できる家具メーカーはなぜ見つからなかったのですか?

皆、おもしろがってはくれたのですが、それ以上の進展はありませんでした。まさか椅子とは思ってもらえず、アメーバのようだと言われました。実際、プロトタイプは座ることができませんでしたし!しかし、ヴィトラの創業者であるウィリー・フェルバウムは興味を持ってくれるのではという望みをかけて、バーゼルへと赴きました。その時は、いったんプロジェクトは保留となりましたが、しばらく後にウィリーの息子のロルフ・フェルバウムが訪ねてきて、テラスに置きさらされていたプロトタイプのパントンチェアに目を留めました。その後、彼がヴィトラの開発責任者を連れてきて、ようやくパントンチェア製品化のプロジェクトは再始動することになったのでした。
© Verner Panton Design AG

製作の初期段階での問題はどんなことでしたか?

当時、プラスチックはバケツなどを作る弱い素材と思われていましたし、その上に座るなんて、とても無理だと考えられていました。座れる強度を保とうとすると、椅子はどんどん重くなり、さらに鋳型成型された後に研磨を重ねなくてはならず、製作コストもまたどんどん上がり、現実的ではありませんでした。あくまでヴァーナー・パントンの目的は、一般の人々に向けた椅子を作ることでしたが、当時の技術でそれは不可能でした。そのため、最終的に製品化に至るまで、試作を何度も重ねなくてはなりませんでした。

ヴァーナー・パントン独特の色彩感覚は何に由来すると思いますか?

彼は、建築を学んだ後、心理学に没頭しました。色が人に与える影響に強い興味を抱いていた彼が目指したのは、建築、インテリア、プロダクトデザインと色彩心理学を結びつけることでした。結局8年の修士期間を終えることなく、彼は学び舎を去りましたが、生涯、色彩について興味関心を持ち続けました。青色を取り分け好んでいました。青い靴下、青い下着、青いスーツ。赤やオレンジを自身が好んで身につけることはありませんでしたが、鮮やかで、見る人を別世界に引き込むような、そんな色彩を好んでいました。
© Verner Panton Design AG

青く輝くパントンチェアの限定バージョンはどうですか?気に入りましたか?

まるでゴーストのよう!自宅にひとつ置いていますが、ふと夜目覚めると、ぼうっと暗闇でパントンチェアが輝いていて、びっくり。「パントン グロウ」が届いた日、部屋で見ていた時は何も起こらなかったのに、夜になると輝き出しました。日中に光を集めるのですね。画期的な面白いアイデアです。きっと夫も好きだと思うわ。「パントン クローム」も絶対に好きね。いつかの夏、ヴィトラキャンパスを訪れた際、イエローのパントンチェアがまるで牧草地の動物のように並んでいたのを思い出します。滑らかなそのシルエットはまるで生きて動いているようだったわ。

Publication Date: 30.05.2018, first published in Icon magazine, March 2018
Author: Jochen Overbeck, Icon magazine
Images: Nathan Aebi, Marc Eggimann, © Verner Panton Design AG, Schnakenburg & Brahl, Tom Ziora



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