野生の楽園

アウドルフ ガーデン

自然はアートになり得るか?これまで数々の美術館の庭園を設計し、2021年にヴァイル・アム・ラインに位置する「ヴィトラ キャンパス」のために「アウドルフ ガーデン」を作り上げた伝説的なランドスケープデザイナーのピート・アウドルフを尋ねました。

「庭は社会を反映する。」これは、ピート・アウドルフが好んで使う言葉です。彼は、この少し奇妙に感じられる言葉を、あたかもみなにとって当たり前のことであるかのように語ります。例えば、デジタル式のスプリンクラーやベランダに植える色とりどりの花を探しにDIY用品店を訪れると、より早く簡単に野菜を育てることができる木箱入りの箱庭や苗床が販売されています。その箱庭や苗床もまた社会ということでしょうか?

彼は社会学者でも哲学者でもありません。彼のことを芸術家と評する人もいます。確かに、近年アート業界で彼の名をしばしば耳にする機会が増えました。彼は、アメリカの美術館やイギリスのgallery Hauser & Wirthのために、多年草と自生する牧草を用いた植栽計画をデザインし、彼の指揮により生命力にあふれたガーデンが実現されました。そして現在、ドイツのヴァイル・アム・ラインに位置する、スイスの家具メーカー、ヴィトラの「ヴィトラ キャンパス」敷地内の「ヴィトラ デザイン ミュージアム」すぐ隣にも、訪問者を独自の美の世界に誘う「アウドルフ ガーデン」が広がっています。自然が芸術になり、芸術は自然になります。これもまた、庭が社会を反映しているといえるでしょうか?

何十年も園芸や造園の業界で名は通っていたものの、今では、アート誌やデザイン誌で前衛的なアーティストとして賞賛され、問い合わせが殺到する現状を、彼は誇りに思いながらも驚かずにはいられません。ドイツとオランダの国境からほど近い街フンメロで、妻のアーニャとともに開梱し整えた彼の農場では、牛の群れが気持ちよさそうに反芻しなが牧草を反芻しながらくつろいでいます。都会や産業から隔絶され自然に囲まれたこの風景は、活気に満ちあふれたアートの世界とはかけ離れたもののように思えます。
もしピート・アウドルフをアーティストと定義づけるとすれば、彼は思考領域の住人、つまりコンセプチュアルアーティストといえるかもしれません。机には、カラフルなペンと透明な紙が置かれています。そこには紫色の波線や小さな青い斑点がひかれ、謎めいた模様が遊び心たっぷりに刻まれています。少なくとも、普通の人にはまったく抽象的で理解しがたい世界です。しかし、アウドルフにとってはすてが意味のある記号でありシンボルです。縦横無尽のそれぞれの線は、色や形、雰囲気、香り、カサカサといった擦れる音も含めて表現される3次元、いや4次元のイメージを表現しています。彼がデザインするものは多層的で常に変化を続ける体験です。そのため、イメージという表現は妥当ではないかもしれません。ガーデンデザインは、時間の経過をも含めて計画を立てます。

眠りにつく前に、彼はしばしばこの感覚的な世界に没頭し、自分が描いた絵を思い出しては、心の目でそれを評価すると言います。柔らかなピンク色の花びらをした円形のアリウムが、うなりを立てる草原の中に差しはさまれたら、それはどのような庭になるだろうか?触感や質感のコントラストは十分だろうか? 2、3歩先で優しく揺れるセージグリーンの色は8月から10月に移ろうとどう変化するだろうか?背景に背の高いキンミズヒの葉が伸び立ちはだかったらどのように見えるだろう?すべてを覆ってしまうだろうか?あるいは、その隙間から除く草の美しさがひきたつだろうか?

植物のさまざまな組み合わせを思い悩みながらも、何百もの問いが彼の頭を駆け巡ります。彼は、植物が芽吹く様子、それらが枯れて朽ちていくのを想像し、さらに多年草と野草が絨毯のように織り込まれているのを想像し、ある植物が弱すぎるのか、それともある植物が強すぎるのかを検討します。そして、半分目を閉じた状態で横たわりながら、彼は何度も自分自身に呼びかけます。「それを忘れてはならない。ピート、決してそれを忘れてはならない」と。他人が夢の庭と呼ぶもの、それは彼にとっては不眠症の種なのです。
Many extol the naturalness of 彼の植栽計画は、人間の意図を感じさせず、まるで植物が自ら湧き出てくるような、自然が生み出す本質的な秩序に基いていることに皆が驚きます。イギリス式やフランス式のような形式に基いて設計された装飾的な花壇とは異なり、ピート・アウドルフは、形式に対する完璧を追求して植物を型に押し込めることはしません。しかし、「自然そのまま?ワイルド?そんなことはない。計算と計画に基づいています」と彼は主張します。「自由のように見えるもの、穏やかに共存しているかのように見えるものこそ、実は厳密なプログラミングによって存在しているのです。」

この相反するかのように思える彼の思想が、彼の手掛ける庭園すべてに共通し、庭園をアートの域にまで高めているます。ミツバチたちが嬉しそうに飛び交う幻想的な庭園は現実と具体性に裏付けされ、その二面性がさらに私たちを惹きつけます。それは、温暖化のために絶滅しつつある植物や、荒廃が進む世界へのアンチテーゼであるかのようにも思えます。アウドルフの手掛ける作品の中で、その二面性が共有するものは「環境」です。アウドルフの手掛ける作品は、これからの世界における新たなバランスを示唆しています。

つくりもの?偽りの調和?そうとることもできるかもしれません。ヴァイル・アム・ラインのアウドルフガーデンを見れば、彼が弁証法的な対比を好む傾向にあることは明らかです。しかし、彼は皮肉屋ではなく、実際にはその逆で、とてもロマンチストです。
彼の最も有名な作品であるニューヨークのハイラインパークでは、産業時代の遺物を隠すことなく、放棄された鉄道高架橋をそのまま植物たちの楽園に変えることに成功しました。不毛に思える荒れ果てた環境に花を咲かせるという魅力的な方法で、彼は批判する人々を説き伏せます。その独自のビジョンのもと、砂漠は肥沃な大地へと様変わりします。そして、これこそが、庭園・ガーデンがもたらす変革力であり、過去の産業遺産からも新たな何かを生み出し反映させることができるという、ハイラインパークで実践してみせた彼の主張なのです。

ヴァイル・アム・ラインのヴィトラキャンパスは、もちろん現代社会から隔絶されているわけではありませんが、プレッツェルのような形をした曲がりくねった小道に迷い込んだ訪問者は、背の高いバーネットに驚いたり、頭上のピンク色の花から漏れる光を浴びたり、レモンイエローのノコギリソウや青々とした湿原草に心を動かされ、幻想的な体験をすることができます。アウドルフが作り出す風景は、絶えず変化し続け、それが周期的に繰り返されるリズミカルな変容を特徴としています。ぎざぎざとしたアザミの鋭利な輝きは、柔らかな桜の木々により穏やかに馴らされ、30,000を超える植物が相互作用によって調和します。それぞれの植物の個性と特徴に着目し詳細を調べたいか、それともひとつに景観として全体感を楽しみたいかに関わらず、新たなバランスによる環境がそこには生まれます。アウドルフガーデンでは、近くの高速道路の騒音は遠ざかり、静けさの中に育ちつつある別の夢幻あるいは別の社会があることを感じさせます。
アウドルフガーデンの周囲にはヴィトラ製品の工場があり、そこでヴィトラの椅子やテーブルの組み立てや出荷をしています。スイスを拠点とする建築事務所ヘルツォーク&ド・ムーロンが設計したショールーム兼ショップの「ヴィトラハウス」を背景に、安藤忠雄、ザハ・ハディド、フランク・ゲーリー、SANAAなど、世界的に著名な建築家を起用した建築が並ぶヴィトラキャンパスは、ヨーロッパで最も美しい野外建築博物館または建築とデザインの聖地と揶揄する人もいます。アウドルフガーデンのすぐ後ろには、50年以上前にリチャード・バックミンスター・フラーが宇宙時代においても人類が生き延びるための空想の建物として開発した「ドーム」が独自の存在感で佇んでいます。
アウドルフガーデンは、建築とデザインの聖地に新たに加わっただけの存在でしょうか?アウドルフガーデンが他の建築物と一線を画す所以はその透過性とその懐の深さです。建築家による建築物は、想像力に溢れたダイナミックさで各々の思想と個性を示しています。一方、アウドルフガーデンはそこに「場所」を作り、多様なコミュニティを平等に包括します。そこには誇り高き個人主義から、あまり目立つのを好まない人たちまで、さまざまな傾向のある人たちを肯定し受け入れます。

もう一つの違いは、営利的かつ意図的な目的から完全に自由であるということです。アウドルフガーデンには機能というものはなく、それはただ成長し、開花し、枯れ、また芽吹くだけです。私たちはただそこでくつろぎ、物思いに浸るだけで良いのです。忙しない日々の中、少しだけ立ち止まって周囲を見渡し、自分を見つめ直すのに最適な場所であり、自分の意識の中で育っていく何かを見つめるためにも理想的です。
彼にとって、成長と衰退は切り離すことができません。彼は9月と10月は庭がもっとも活力を蓄える時だと言います。枯れ始めるその季節にエネルギーを蓄え、次の生命を咲かせる前のその時期を大切に演出します。彼は、多年草の乾いた花をそのまま残し、それらがゆっくりと崩れてしわくちゃになるのを眺めたり、最後の種子の上に霜が這うのを観察したり、青々とした緑のガーデンが灰色や茶色の枯れた庭に変わっていく様を見守ることに喜びを感じています。それらはあえて春先まで除去されることなく、春が来て新しい命が再び芽吹きます。
アウドルフガーデンは決して完成することはない、未完の楽園です。彼が探し求めるバランスは、日々アップデートされます。それを知るには、ヴァイル・アム・ラインのヴィトラキャンパスを訪れ、アウドルフガーデンにその身を投じることしかありません。庭は変容と変化の象徴、そして自然と文明の関係性を語り、予期せぬ何かが花開く場所です。

Publication Date: 3.5.2022
Author: Hanno Rauterberg, first published in DIE ZEIT no. 26/2021, 14 June 2021
Images: Vitra, Piet Oudolf;

This might also interest you